社 宝
文化財
社宝・文化財の多くは、幾多の震災・戦災を免れ現代に伝えられており、当社の由緒や沿革を知る上で欠かすことのできない貴重な資料でもあります。とりわけ、江戸幕府ゆかりの品々が数多く現存しており、徳川家の篤い尊崇を集めていたことを物語っています。
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朱印状
徳川吉宗 享保14年(1729年)
朱印状とは、幕府が将軍の代替わりごとに大名・旗本・社寺にたいして所領を認めた書状のことです。こちらは徳川八代将軍吉宗公が氷川神社に宛てて初めて発給したもで、武蔵国豊島郡代々木村に200石を寄進し、国家安泰の祈祷に励むことを求める内容となっています。以後、十四代将軍家茂公まで朱印状が発給されております。
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社号額 氷川神社
有栖川宮幟仁親王書 明治初期
社号額は、神社の拝殿や鳥居に掲げられている社名が揮毫された扁額のことです。御社殿内に掲げられる社号額は、有栖川宮幟仁親王(1812年~86年)により揮毫されました。有栖川職仁親王が創出せられた「有栖川御流」入木道(書道)を、皇室を代表する入木道に大成せられ、昭憲皇太后に和歌を、明治天皇に入木道と和歌を指南、「五箇条の御誓文」の揮毫などが知られます。また、時の祭神論争の沈静化に尽くし、翌年には皇典講究所総裁として皇学の隆盛に尽力されました。
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氷川明神社領 配当目録
享保14年(1729年)
氷川神社が幕府からはじめて社領を拝領した際、朱印状とともに社領200石の配分が定められました。この文書には、20石を神供料に、100石を修理料に宛て、50石を別当寺院の大乗院に、残りの30石を社人すなわち神主の斎藤右膳に割り当てすることを示しています。
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花鳥図
長華崖 昭和4年(1929 年)
御社殿の天井絵(花鳥図)は、遷座200年を記念して長華崖(ちょうかがい)により描かれました。花鳥図は、花や鳥を主として動植物がモチーフにされており、それぞれに長寿や子孫繁栄などの願いが込められています。
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鳳凰図
宮部衆芳 昭和4年(1929 年)
壁間には宮部衆芳による「鳳凰」が描かれています。鳳凰は平安・繁栄を象徴する霊鳥であり、聖君が登場し平安の世が築かれる前兆として舞い降りるといわれます。
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棟札
享保15年(1730年)
棟札とは、建物の造営の際に、その建物の繁栄と工事の安全を祈願して棟木や梁に取り付ける木の札のことをいいます。また板面には、神様の名前、工事の概要・年月日、施主・施工者名などが墨書され、その建物の歴史を知ることができる貴重な資料となります。この棟札の中央には「上棟 氷川大明神」とあり、「征夷大将軍内大臣正二位源朝臣 造営」と記し、8代将軍吉宗の命で造営されたことを示しています。
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旧紀州家 櫓太鼓
天保10年(1840年)
古来より日本では、鳴り物・打ち物で時間や物事の始まりを告げました。神社で打ち鳴らす太鼓を「号鼓(ごうこ)」と呼び、これには神事開始の合図のためだけでなく、御社殿内を祓い清め、参列者の心を鎮めるという意味もあります。御社殿に設置されている櫓太鼓は、紀州徳川家の赤坂藩邸にあったもので、明治2年(1869年)頃に当社に納められたといわれます。
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屏風 紙本着色神馬額絵・獅子額絵
狩野豊久 18 世紀頃
祭祀や祈願の際に生きた馬を奉納することがあり、これが転じて板に馬の絵を書いて奉納する風習が生まれました。当社境内にもかつては額堂があり、奉納された大絵馬が掲げられていたようです。狩野豊久(1689 年~ 1767 年)は徳川吉宗に仕えた絵師で、将軍の意向を狩野家などの幕府御絵師に伝えて指導する役割を担っていました。そうしたことから、この額絵の奉納も吉宗公の意向によるものと考えられています。
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祭礼山車行列額絵図
磯田長秋 明治44年(1911年)
江戸有数の祭礼であった『赤坂氷川祭』の様子をあらわした額絵であり、現在は御社殿内に飾られています。「江戸の祭の華」といわれた豪華絢爛な江戸型山車13本が悠々と巡行し、雲の切れ間からは祭礼を楽しむ市井の人々の活気が感じられます。明治以降、東京の祭の主役は神輿に代わりましたが、平成18年よりNPO法人赤坂氷川山車保存会が中心となり、山車の修復・復活に取り組んでおります。
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『ま』組火消し絵馬
月岡芳年 明治12 年(1869 年)
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉のとおり、江戸の町は火災に見舞われることが多く、「いろは48組」で知られる町火消(まちびけし)が組織 されました。そのうち、『ま』組は当社の周辺地域を管轄しており、この絵馬には火事場に向かう火消し衆の様子が活き活きと描かれております。江戸時代末期から明治時代初期に活躍し、多くの優れた浮世絵版画を遺した月岡芳年の珍しい肉筆絵馬として大変貴重な作品です。
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御祭禮番附留
安政2年〜文久元年(1855年~61年)
氷川神社の祭礼は丑・卯・巳・未・酉・亥の隔年6月15日に行われていました。この古文書には安政2年から文久元年までの山車や出し物・人数構成・参加者などの詳細が書き留められています。裏表紙には「氏子中」とあり、これが氏子町会の人々によって作成されたことがわかります。また、本文中には安政2年に新規に帳面を作成し、以後毎回書き継ぎながら氏子町の間に回覧していく旨が記されています。
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氷川神社全景絵図
三代歌川広重 明治30年代(1897年~1906年)
桜が満開に咲き誇る氷川神社境内を描いた三代歌川広重の肉筆画です。遠景に富士山(左奥)と赤坂迎賓館(右奥)があり、境内の内外には洋装、和装様々な参拝者がみえ、手前の通りには人力車や馬が行き交っていることがわかります。昭和19年(1944)の東京大空襲により焼失をした建造物も数多く描かれており、当時の境内の様子を窺い知ることが出来る貴重な資料でもあります。
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掛軸 氷川神社
勝海舟 明治中期
勝海舟は当社が建立する赤坂の地と縁が深く、明治5年(1872)から晩年まで氷川町十番地(赤坂6丁目)に2、300 坪の邸宅を構えていました。この掛軸には「海舟勝安芳謹書」の署名と落款に「物部義邦」とあります。「海舟」の号は佐久間象山が書いた「海舟書屋」の額をもらい受けたことに由来します。なお、勝氏は先祖を古代豪族の物部氏としていました。
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掛軸 氷川神社
山岡鉄舟 明治中期
山岡鉄舟は諱を高歩( たかゆき)、通称を鉄太郎といい槍術の名家として知られる山岡家の婿養子となって跡を継ぎました。高橋泥舟は義兄にあたります。勝海舟・西郷隆盛の江戸城無血開城に立ち会い、維新後は明治新政府に出仕し、明治5 年(1872)から同10 年まで明治天皇の侍従を務めました。この掛軸には「正四位山岡鉄太郎拝所」と書かれており、正四位に叙任された明治15 年(1882 年)以後のものと考えられます。
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掛軸 氷川神社
高橋泥舟 明治中期
高橋泥舟は旗本山岡家出身で、諱を政晃、通称を精一といい、母方の旗本高橋家を継ぎきました。徳川15 代将軍慶喜に仕え、「鳥羽・伏見の戦い」敗戦後は慶喜が寛永寺や水戸に謹慎した際の護衛を務めていました。徳川家が静岡に封じられると静岡藩士となり、廃藩置県後は東京に戻り隠棲をした。この掛軸には「泥舟拝書」と署名があり、「高橋精一」「泥舟」の落款がみえます。
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掛軸
しあはせいなりの社勝海舟
明治31 年(1898 年)明治31 年、当社境内に古呂故稲荷・地頭稲荷・本氷川稲荷・玉川稲荷の4 社を合祀した際、勝海舟はこれに“四社を合祀” 幸福の“しあわせ” “志をあわせる” をかけ、「四合(しあわせ) 稲荷( いなり)」と名付けました。「明治戊戌晩秋」とあることから、この年10 月頃に揮毫したものと思われます。「海舟勝安芳」と署名があり、「海舟」「物部義邦」の落款がみえます。