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宮神輿と山車

”神輿舞い、山車が征く”
東京都心のビル街を背景に宮神輿と山車が練り歩く赤坂氷川祭。
戦時中に失われた宮神輿、この地に奇跡的に残存していた赤坂氷川山車は、氏子崇敬者の篤い崇敬心により近年復活を遂げました。

宮神輿みやみこし

神輿とは祭礼時に御祭神のご分霊を遷す神聖な神様の乗り物です。とくに神社が所有する神輿は宮神輿と呼ばれます。神様がお乗りになった神輿を巡行することで、地域内の災厄や穢れを御神徳により祓い清めます。

赤坂氷川神社にはかつて宮神輿を2基ありましたが、1基は譲渡もう1基は東京大空襲の際に焼失をしました。そのため、戦後長らく間は赤坂氷川祭では町会神輿のみの渡御という形をとっておりました。

平成 28 年(2016 年)、御社殿を建立した徳川吉宗公の将軍就任 300 年にあわせ、宮神輿と江戸型山車の連合巡行という江戸の祭礼をより正確に再現すべく、宮神輿の復元新調を行いました。同年 9月の祭礼において、宮神輿と江戸型山車の連 合巡行が約 100 年ぶりに実現しました。

焼失した宮神輿は、台輪寸法5尺(約1.5m)もあり、人で担ぐことはせず牛で曳いて巡行していました。しかし、当時の大きさと重さのまま新調するのは現実的ないため、姿形は限りなく当時のものを再現し、台輪寸法4尺(約1.2m)の規格で新調することとなりました。総漆塗、唐破風屋根の神輿で、胴羽目部分には御社殿に納められている『祭礼山車行列額絵』の彫刻を配しております。

昔の宮神輿

現在の宮神輿

山車だし

山車とは祭とき人形や花など種々の飾りものをつけて曳き回す屋台のことです。山車の語源は、平安時代、大嘗祭の際に曳かれた標山(しるしやま)に由来します。神様が降りてこられる場所(依り代)であり、お神輿と同様に神聖な神様の乗り物と考えられています。地域によって呼称や名称が異なり、曳山(ひきやま)・祭屋台(まつりやたい)、単に屋台と呼ばれることもあります。

様々な形を持つ山車ですが、この赤坂氷川祭の山車の多くは「江戸型山車」とよばれる形式でつくられています。江戸型山車最大の特徴は、徳川将軍の上覧に際し江戸城門をくぐるために上部の人形が上下するカラクリを備えていることにあります。つまり、城門をくぐる際に人形を下げ、くぐり抜けたあとに人形を上げていたのでした。

結果として、赤坂氷川神社の祭礼では山車が江戸城に入城することはなかったようですが、地域に13本もの山車を有していたことは、徳川幕府が赤坂氷川神社を篤く信仰し、赤坂氷川祭が幕府の庇護を受けながら盛大に行われていたことにほかなりません。

明治以降、「天下祭」の廃絶とともに山車は衰退の一歩をたどります。追い打ちをかけるように関東大震災・東京大空襲が都心部を襲い、徐々にその姿を消してゆくことになったのです。しかし、赤坂氷川神社裏手の倉庫には、奇跡に山車の一部分が遺されていました。現在、赤坂氷川山車保存会が中心となり山車の修復・巡行に取り組んでおります。

昔の山車の絵

山車庫

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